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目次  (1)日本の豊かな森  (2)公共事業の意義を問う  (3)里山について

 

 このホームページは狭い範囲の限定的な議論であることをご容赦願いたい。絶対的なノーインパクトを追及するのではなく、相対的なローインパクトでいくという立場は、所詮書斎の議論だと断罪されかねない。山のぼらーは小さな狭い宇宙の住民だが、ある地域の自然環境の中に偶然いたことから小さな発信を行い、山のぼらーの行動基準を示したい、そしてその発信をより広く全国にも波及させたい、という思いからホームページを開いたものだ。その根底には環境倫理学という新しい学術領域への個人的な関心がある。

 本ホームページへの批判を自分なりに想定してみた。なかでも第3章で既存の理論的枠組みを無批判に採用しているところが引っかかる。人間中心主義の陥穽、西洋的思考対東洋的思考の二項対立の紋切り型議論、神の前には人間と自然は対等であり人間にとって自然は征服の対象であるのか、それとも人間は本来自然の中にあるのか、が議論の根底にある。このホームページの議論には「人間が英知を結集してことにあたれば、問題は克服できる」という妄想が漂っているように思われ、主意主義的な人間万能主義に陥っているのではないか。T・パーソンズ理論批判と同様の展開がここでもあてはまるとはありがたい限りだ(そんなエラソウナものではまったくないが)。西洋対東洋の二項対立的思考、人間万能主義の陥穽を打破し新しい理論的枠組みを構築することは、このホームページを広く発信している責任上、ぜひとも克服していかなければならない課題だ。

 ただ、人間が自然から収奪してきたものは人間が返還するしかない、と考えるのは当然のところだろう。自分として何か責任を果たせるものはないか、その第一歩がこのホームページづくりだったわけだ。

 

1 日本の豊かな森

日本の山の豊かな森は、今日における我が国の豊かさの反映でもある。合計してゼロになるゼロサムの理屈でいくと、日本の森林保全は、先進国の繁栄の裏返しとして他地域の自然からの収奪の上に成り立っている。東南アジア諸国からの安価な木材の輸入、ヒマラヤの森林の喪失と環境行政が遅れているネパール国内の大気汚染、バングラデッシュ等下流域での洪水被害の発生は、森林減少と相当因果関係があるとされている。アフリカなどの農耕民が生活上の燃料として利用するためにわずかな森の樹木を伐採しその結果砂漠化が進行している。ハンバーガーの消費拡大から食肉牛生産用に南アメリカの森林が伐採されて放牧地化し、しかも牛が吐き出すゲップが地球温暖化をすすめているというオマケつきだ。海老好きの日本人の消費用に、東南アジアのマングローブ林が養殖池となり大きく減少したというのも有名な話だ。これらの話をリンクさせると、日本(先進国)から自然破壊(貧困)を輸出し、豊かな自然環境を輸入しているようにみえる。もちろん国内でも同様の理由から自然破壊が生じていることにかわりはない。首都圏の大量化石燃料消費による大気汚染が原因で日光連山や丹沢山地の樹木が痛んでいるという報告がされている。なかでも丹沢のブナ林が衰退しているのは、大気汚染による酸性雨とともに、地球温暖化により丹沢地域の気温が上昇し、ブナ本来の植生に適さない環境となって苗木が育たず、現世代限りのブナ林になっていることが理由だという。加えて登山者の入り込みすぎ(オーバーユース)により裸地化が進み崩壊が進んでいる。丹沢表尾根がどんどんやせている姿は痛々しい限りだ。このことに気が付いた日本人は、今後、行動基準を改めて自然環境保全に向けての課題を自分なりに受け止め、どのように取り組んでいくべきなのか、常に意識していかなければならないだろう。

 

※だとしたら、「こんなホームページを作っているよりも、ヒマラヤへ行って植林をしたほうがよっぽどマシだ」という意見が聞こえてくるようで耳が痛い。「現状認識が型どおりで第三者的であり過ぎはしないか。行動をしていない。汗をかいていない。」「何やかんや言っても、これはただの山好きの自己弁護、趣味の発表会に自己満足しているに過ぎない」という批判が聞こえてくる。しかも批判を織り込み済みで意図的に責任を回避しているところがあり、HPを作っている筆者の無力さや自信のなさ、責任を転嫁しようという姿勢が露呈しているところが非常にうさんくさいが。

msotw9_temp0 丹沢・檜洞丸山頂付近 このブナもこの代限りか

 

2 公共事業の意義を問う

 世界自然遺産に登録された屋久島の自然を一目見ようと、年間17万人の観光客が屋久島を訪れるとのことだが、地元の町役場では「縄文杉まで車でどのくらいですか」という問い合わせが非常に多いそうである。筆者は残念ながらまだ屋久島に行ったことはないが、タクシーが入れる林道の終点から縄文杉までは徒歩で片道5時間くらいかかると聞いている(注:機会があって2000年5月に屋久島へ行くことができた。別章「追記・そこに行ってみよう」参照)。ここで名所巡りは車で気軽にいきたいという観光客の要求を非常識だと批判することは、登山者の傲慢であり、慎まなければならない。現在、屋久島の自治体は縄文杉まで車で行ける道路をつくる予定はなく、「不便な島でよい」とのことで安心させられる。

 従来の枠組みを推進する為政者ならば、一般観光客のニーズを捉え観光資源まで道路を敷くことを政治的利益として捉えることだろう。公共事業のおかげで周辺の下請け土建業者は仕事にありつけ、新たな土建業者が参入してくる。その時点では雇用機会が確保され、地域経済全体も一時的に活況を呈するだろう。しかし公共工事完了後には仕事がなくなった土建業者は、新たな公共工事を獲得するため産業振興や治水を名目に工業団地を造成しろ、治水ダムをつくれと請願し、為政者はこれを新たなニーズと捉え利権に変えていく、というお決まりのパターンである。

 砂防ダムや河川護岸工事にみられるように、水害防止という公共目的が少しでも認知されれば、公共施設単体の利用による便益のあるなし、その効果などそれほど重要視されることなく、公共事業は日本のすべての山・川・渚をコンクリートで覆い尽くしてしまうまで、箇所付け(中央官庁が公共事業を行う場所を決定する)されるかのような勢いだ。逆に配当予算が無くなれば公共事業はそれを最大の理由としてストップするのである。公共事業の現実の目的は、まず行政庁自身の仕事を確保し、次にゼネコン業界に均等に仕事を与え、また土地に農家をしばりつけつつ農閑期の農業従事者に現金収入を与えることであることは、既にみんなが知っている。

ところで公共事業は年間当たり何兆円という規模で国や地方公共団体が予算を組み、その財源は現在から将来のいくつもの世代が公共事業の効用を享受し、費用は将来の世代も公平に負担することを前提に、主に借金(国債、地方債)によって運営されている。このような公共事業のあり方を税金の無駄づかいと断罪し、ただちに中止せよという議論がしばしば繰り広げられるが、別途克服しなければならない課題も是非議論してもらいたいと思う。それは公共事業に対して、実際に現場で労務を提供している農林漁業就労者の実情だ。わが国では専業のみで経営自立できている農林漁業就労者はむしろ少数で、多くの農林漁業就労者は公共事業の土木作業等で現金副収入を得て、なんとか生計を維持しているというのが実態だ。公共事業の縮小は多数の農林漁業就労者の生計を圧迫する。産業別所得水準の格差をもたらす構造的欠陥を克服し、農林漁業就労者が生業上宿命的に担わされている山間地・海岸等での私有地である部分の国土の保全作業を将来にわたって維持していけるのかが大きな課題になっていると思う。

 いま求められているのは、利権をめぐってのゼネコンと政界との癒着構造をとりまく古い枠組みをまず打破することであり、山のぼらーも新たな枠組みづくりの一役をなんらかの形で担うことを目指していると言っておこう。

 

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信州・徳本峠への道 この島々谷の右側奥の北沢に巨大な砂防ダムがつくられようとしている

 

 

3 里山について

最近注目されている「里山」という比較的最近になって一般的となった言葉があるが、里山は「雑木林」と同様に自然保護・環境保全の文脈でのキーワードとなっているのはご承知のとおり。2005年開催予定の愛知万博計画の中で、名古屋市近郊の里山である瀬戸市南部の「海上の森」(かいしょのもり)の一部が伐採される計画であることが判明した。以来オオタカの営巣も確認され、万博計画の中止と里山保護を求める市民運動が高まり、その推移が全国的にも注目されるなか、計画の一部縮小が発表されるに至っている。今日、里山保護の市民運動は公共事業見直しやナショナルトラスト運動など、個々のテーマと様々な手法を用いながら、全国で湧き起こっているところだ。

里山は腐葉土や薪の供給地として常緑樹を落葉樹へかえる人手の加わった二次林だが、高度成長期を経て農業人口が大幅に減少し、化石燃料が日常生活の熱源の大半となって国民の生活様式の変化と都市化の進展とともに、その存在意義が忘れ去られるようになっていった。里山に人手が入らなくなって既に久しく、たとえば地域の明細地図上では里山に小道が記載されているが、実際には藪がうっそうと生い茂り通行不能の状態になっているところも多いことだろう。手が入らなくなって里山が荒れているのは自然が豊かなのではない。長い時間をかけて里山に棲みついた生物にとっても、変わっていく里山環境は、生き物の世代交代のサイクルをおびやかし棲息を困難とする要因となっている。

しかし現在、里山は都市近郊の身近な自然であり保健・休養・やすらぎ機能を持つ市民のオアシスとして、まず余暇利用の空間としての見地から目をむけられ、さらに日本の伝統的生活文化の再認識を目指す文化的機能の視点で語られるようになった。エネルギー問題を人類の存続の視点と無縁では語れない今日的状況となり、里山の機能を、かつての生活手段の補給源から現代人の生活文化の基盤とすべきものとして再評価するようになった意義は大きい。人間が自然との共生の中で育んできた里山には、いつしか絶滅危惧種とされる生物が生息している事例がいくつか報告され、里山は貴重な自然環境としての評価もされるようになっている。

もともと生活のうえでは里山とは関係性が希薄だった市民もレジャーを契機として参加していく里山保護の運動が拡大しており、既にインターネット上の各サイト間では、全国の里山保護運動推進にむけ連携・協調をはかる里山ネットワークが成長しているようである。いずれは環境倫理重視の登山愛好者が協調しあう、山のぼらーのネットワークづくりに一役買いたいというのが、筆者のささやかな希望である。

 

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所沢市久米にあるトトロの森・2号地(ナショナルトラスト地) 鳩峯公園緑地に隣接し里山一帯の保全に貢献している

 

 

        

 

 

 

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